国府達矢「ロック転生」ライナーノーツより
折衷主義、その向こう
ロックンロールでもジャズでもディスコでもヒップホップでも何でもいいけれども、物真似のうまい、借り物上手な日本人、という問題があって、その例は数多い。「〜みたいにやりたい!」という純粋な反応は、それ自体、他人にどうこう言われる類のものではない。
しかし、それでは何かが足りない気がする。
そしてここ日本では、「〜と〜とを合わせた」諸要素のミックスのセンスのようなものが特化されていった。
実際、この録音盤「ロック転生」を聞いていると、90年代を原体験的に通過した私の耳には、シューゲイザーやグランジ/オルタナティヴに始まる様々な残像がよぎる。(それはマイ・ブラッディ・ヴァレンタイン『ラヴレス』や、ライドの1stや、ソニック・ユース『デイドリーム・ネイション』であったり、ジェフ・バックリィ『グレース』であったりした。あなたにはどうだろう?)
とても映像的な音の配置と、ときにパンキッシュであり、ときにプログレッシヴな演奏からは、ロックンロール・ミュージックの様々な感情的/音響的側面が見えてくる。
好きな音楽は数ある。人それぞれ趣向は違う。日々によって、好きなものも、好きな部分も変化するだろう。たぶん、海外のものが、それも、米国のものが、とても多いだろう。
それはそれだ。その感激や興奮から始めればいい。
しかし、それでもなお、僕らは物足りないのだ。
そしてここに挑戦者がいる。
和魂洋才? その次
自分(たち)の通ってきた、さまざまなミュージカル・ジャーニーを、ドメスティックなもの、「地に足のついたもの」と重ね合わせていこう、押し進めていこう。
これは言わばトライアルであり、しかも奇妙なことに、この日本ではあまり前例のない挑戦である。
このcdに収められた幾つかの楽曲には、どうにもセンチメンタルな気持ちにさせられる、童謡や民謡のようなメロディがある。沖縄音楽の感じにも近いし、しかし、それだけでもない。
ここで(私の)話は1945年に及んだり、「マトリックス三部作」に及んだりと、蛇行しながら大きく弾んでいくわけだけれども、それはまたの機会にとっておこう。
ポイントは、「国府達矢が何故、このような音楽を求めたか?」にある。
そしてそれが、「2000年代に生きる我々とどう関わってくるか」にある。
「ロック転生」の世界観は、クリアだ。
それは、アメイジングなもの、圧倒的なものの、自分たちが本当に感激する音楽というものの追及である。ここには、
「音楽が生まれて鳴り響く場所」についての歌があふれている。この場所は開かれていて、誰にもその扉の中へ入ってきてほしいと願っている。
だからこそ彼は、「ロック転生」なるタイトルについて、
「己の音楽的輪廻体験のことだけを物語る意味ではなく、ロックまたは芸術という名の想念体自体の宿命転換を願うものであり、革命であり、願わくばレヴォリューションズなのであり、その……」と熱く語るのだった。
もちろん、音楽の魅力はコンシャスな部分をアンコンシャスな部分が凌駕していくところにもあるわけで、だからここでわざわざ力んで告げるまでもないけれども、要するに、
これは、新しい日々のスタンダードなのだ、ということさ。
「スタンダード」だって?
そうだ。
かつて国府達矢には、こんなクエスチョンがあった。
「今、ここの日常において、どんな音楽を鳴り響かせるか?」――まったくもって、ごくごくまっとうな疑問である。そして、本人言うところの“宇宙的日常感”、意訳すれば、「体験」や「祭り」といった言葉こそが似つかわしいこの音楽こそが、彼の回答であったのだ。
この6曲入りcdは、国府達矢と数人の若者たちによって、最高に楽しい幾夜を通じて作られた。
そして、その先には、必ずや、未だ見ぬ友人たちとの、途方もない出会いが待っているはずである。